鷲神社の紹介
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御祭神
御祭神
各神社の各種ご祈祷は、鷲神社において正式に受けられます。
由緒
由緒

ご本社神輿ご修復(宮本卯之助商店)
お水屋改修工事(平成21年7月日比谷工務店)完了
平成22年 先人顕彰碑除幕
9月・11月お披露目 各種大祭 執行
平成25年 宵宮みこしも賑やかに、震災復興祈願致しました

吉宗将軍御成吉田順庵先生島根学問所跡
正岡子規発句を拾う「うぐいすの梅島村に笠かわく」
農業学校等牛込家古跡 島根囃子・石塚囃子碑など

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島根ばやしは、節分祭、大祭、お酉様など賑やかです。
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神楽、村ずもう碑、らんちゅう展示など史跡巡りも楽しいです。
島根 〜治水と人々の歴史〜
先人の見識を稱(たた)えて

 明治の俳聖、正岡子規がこの地をたずね、「うぐいすの梅島村に 傘かわく」(当時梅島村島根と称した)と発句を得たご利益を記しておられますが(「足立史談」)、江戸の古は御鷹場として、歴代将軍家や、その後も諸人の心をも潤おす美田を連ねた景勝地でありました。
 豊かな稔りも努力と治水の歴史によるものでした。家康公が利根荒川等の改修にかかり、各街道整備に継ぐ江戸三大水利事業は、玉川上水、神田上水とこの見沼代用水であり、八代将軍吉宗公は広く助郷を求めました。
 南番三十二ヶ村総名主を務めた、わが島根の牛込孫衛門のもと、各流域と共に人力を結晶して利根大堰(とねおおぜき)よりの真清水が取水、通水されたのです。
 明治43年、大堰大出水す。埼玉側はもとより、芝川中川と千住荒川、台東中央他を浸しましたが、この微高地は被災せず、その防災拠点としていちはやく消防組活躍、救護に当たりました。別に掲げる芳名は、国家の大事業、荒川放水路開削に伴う、各自の奉仕による尊い浄財を境内整備へと高めた、神人感応、先祖報恩の誠であります。
 鷲神社奉賛会はじめ、当代の心ある人達が千古の昔よりの真剣な歴史の重みを受け継ぎ、この奥の院改築竣工芳名、再録を通し、江戸以前の本殿、拝殿、二殿を渡殿で結ぶ松並木の旧景観に思いを致し、以降、今日に亘る絶え間のない地域発展の亀鑑として顕彰しようとするもので、導きの見識の高さに感謝の一念を表わすものです。
 茲にその由来をしるし、更なる弥栄を祈り、筆をまとめます。

平成22年9月 大祭を寿ぎて
宮司 石倉義康 撰
奉賛会長 牛込孝次
鷲神社奉賛会 氏子崇敬者中 一同
神威拡大 奉拝福寿

鷲神社奉賛会長 牛込氏の御由緒
 牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主、大胡氏を祖としています。天文年間(1532〜1555)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含め領有し、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家康に従いました。
 戦国時代の牛込氏の居城は、新宿区袋町15番地にあり、堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明ですが、住居を主体とした館であったと推定されております。
 現在同地には、正保2年(1645)に神田から移転してきた光照寺があり、境内には、新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがございます。
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